「江戸の料理史」 - 料理本と料理文化 -
日本料理は室町時代に独自の発展を遂げて、江戸時代に完成の域に達したとされていますが、250年あまりの江戸時代を通じて、徐々に庶民生活のレベルにまで根をおろして、独特の料理文化を開花させています。
その時代は、庶民の日々の生活にもようやく余裕がみられるようになったとはいえ、時には大飢饉によって大量の餓死者が続出することも度々ありました。
しかし一方では、初鰹一本に大枚をはたいて喜ぶ人がいるという時代でもありました。
そのような時代背景を考えると、料理自体も時代の流れに応じて様相を変え、様々な食事風景が存在したことでしょう。
江戸時代末には100万の人口を抱えることになる大都市でさえ、その時代の前期には外食を専門とする店はほとんどなかったようです。
料理屋的なものが出現するのは寛文・延宝から元禄期になります。
とはいっても元禄期でもわずかに奈良茶飯の店がみられるだけだそうです。
またこの元禄10年には「本朝食鑑・ほんちょうしょくかん」が刊行されていますが、お酒に関する記述もあり、興味深く思います。
凡そ酒を造る場合は 先ず水を択ばねばならない。
流泉、井泉を最もよい水とする。 渓流、長流は之に次ぐ。
水をよく択んだ後には、米を択ばねばならない。
五畿、濃尾、海西の肥壌の米が勝れたものである。
この原料の重要性に関する記述は、現在の酒造りにおいても全く同様です。
江戸の料理文化の本格的な開花は、宝暦から天明期にはじまり、化政期に爛熟して、天保から幕末にかけて転換期を迎えます。
すなわち、宝暦から天明にかけて、遊びの要素を持つ料理本が登場します。
その代表的なものは「豆腐百珍」ですが、この本は天明期の料理文化を代表しているようです。
またこの時代には料理屋が増え、天明期には本格的な料理屋へと変身していきます。
文化元年には江戸には6160軒の料理屋があったとありますが、この頃には江戸の下層にまで外食文化が浸透しはじめたのでしょう。
また化政期には料理屋の高級店化が進み、街道沿いにも料理屋が出現する、とありますが、嘉納家に残る醸造石高の記録を見ましても、天明のころから酒造りは飛躍的に増加し、天保の飢饉の時期を除き、化政期から幕末までの50年間に最盛期を迎え、一万石を超える石高もたびたび記録しています。
江戸送りを中心に発展した灘酒ですが、灘酒を支えたのは江戸の料理文化の発展で、その料理文化を支えたのは、江戸の商人といわゆる江戸っ子であったのです。
化政期を頂点にして、天保の改革を境に精彩を失い、一時衰退の途をたどることになる江戸の料理文化ですが、新たな時代に対応し、現在見られる東京の料理文化の形成に我々の灘酒が果たした役割を考えると感慨深いものがあります。
「こんな話、あんな話」メニューへ
|